Contents
:創設年度
:本拠地
:親会社
:投手
:捕手
:内野手
:外野手
:監督&コーチ |
阪神タイガース一言コラム
| 1977年4月29日、川崎球場での横浜ベイスターズ|大洋戦で起きた事故。阪神が7-6とリードした9回裏1死1塁で、大洋の清水宏悦|清水透が打った大飛球を左翼手の佐野仙好がフェンスに激突しながらも好捕した。しかし、当時の川崎球場のフェンスはコンクリートが剥き出しだったため、佐野は頭蓋骨を陥没骨折して、ボールを捕球したままうずくまった。レフト線審の田中俊幸は捕球... |
スポンサード リンク
特集
2008/06/27 日記<阪神タイガース>
阪神タイガース
阪神タイガース(はんしんタイガース、HANSHIN Tigers)は、日本の日本プロ野球|プロ野球球団で、セントラル・リーグの球団のひとつ。運営法人は阪急阪神東宝グループの系列下である。兵庫県をプロ野球地域保護権|保護地域とし、同県西宮市にある阪神甲子園球場を専用球場(本拠地)としている。二軍(ウエスタン・リーグ)の本拠地は同市にある阪神鳴尾浜球場。2005・2006・2007年度ペナントレースでの観客動員実数は12球団中で唯一300万人を超える。なお、英語の「Tigers」の発音は「タイガーズ」の表記のほうが近いが、球団の正式名称は日本語の固有名詞なので、あくまで「タイガース」である。
球団の歴史 戦前期
1935年、前年末の大日本東京野球倶楽部(読売ジャイアンツ|東京ジャイアンツ)設立をうけて、阪神電気鉄道が職業野球団を組織する準備を始めた。ジャイアンツは読売新聞が部数の拡大を目的として設立した球団で、特定のリーグに所属しないそれまでのプロ球団とは違い、数チームでリーグを結成した上で安定した興行を行いたいという新聞本社の考えから対戦相手を探していた。特に、東京、大阪、名古屋の三大都市圏で試合を行うことを目指していたので、大阪近郊に阪神甲子園球場|甲子園球場という日本最大の球場を持っていた阪神電気鉄道が球団を設立することになった。1935年10月25日の門前眞佐人との入団契約を皮切りに山口政信、藤村富美男、藤井勇といった高校野球|甲子園のスター選手と都市対抗野球の強豪・大連実業の松木謙治郎らを集め、同年12月10日に「株式会社大阪野球倶楽部」、球団名大阪タイガース(おおさか-)が発足した。日本運動協会(のち宝塚運動協会)、天勝野球団、大日本東京野球倶楽部に続く日本で4番目のプロ野球チームであった。翌1936年にも、川崎コロムビアの若林忠志(1月9日)や立教大学の景浦將(2月28日)等の有力選手と契約し、同年4月の球団結成記念試合までに17名の選手を獲得した。同年2月5日には、東京ジャイアンツ、中日ドラゴンズ|名古屋、オリックス・バファローズ|阪急等とともに日本野球連盟 (プロ野球)|日本職業野球連盟を結成している。これは、現在の日本野球機構にあたる組織であり、同日が日本プロ野球リーグのはじまりである。1936年の公式戦は、春(第1回日本職業野球リーグ戦)・夏(連盟結成記念全日本野球選手権)・秋(第2回全日本野球選手権)の3シーズンに分けて東京、大阪、名古屋の各都市圏でいくつかの大会を開催する方式だった。最初のシーズンである春は、東京ジャイアンツがアメリカ合衆国遠征を行っていて出場しなかった(後に名古屋金鯱軍も内外遠征を行っている)ためシーズン優勝は決めなかった。しかし、開催された3大会で松木や景浦率いる打線にエースの若林といった布陣で臨んだが、タイガースはいずれも1位を逃した。1936年夏と秋のシーズンは、各大会で1位になった回数でシーズン優勝を決める勝ち点制だった。夏、名古屋大会で1位になったタイガースは、東京大会、大阪大会で1位になった名古屋、阪急と優勝決定戦を行うこととなっていたが、直前になって中止され、初優勝を逃した。また親会社同士が競争関係にある阪急に勝てなかったことから、初代プロ野球監督|監督の森茂雄が解任され、石本秀一が監督に就任した。同年秋、打倒沢村栄治に闘志を燃やす松木や景浦を中心として各大会を戦い抜き、24勝6敗1分の成績を残したが、優勝を決める勝ち点は2.5で東京ジャイアンツと並んだ。このため、同年12月に洲崎球場で優勝決定戦が行われたが、1勝2敗で惜敗した。戦前・戦中は常に東京ジャイアンツ(1940年に「東京巨人」に改称)と優勝争いを繰り広げた強豪チームであった。特に1937年秋、1938年春には、御園生崇男に加えて1937年春から豪腕西村幸生が加入した磐石の投手陣と、松木、山口、景浦、藤井、田中義雄らの強力打線を擁してプロ野球初の2連覇を達成した。さらに、春秋2シーズン制を採用していたこの2年間は、春と秋のシーズン優勝チーム同士が戦う年度優勝決定戦でいずれもジャイアンツを破り、年度優勝に輝き球団初の日本一、さらには2年連続日本一となった。1940年9月、戦局悪化によって敵性語である英語の使用禁止を受け、球団名を大阪タイガースから阪神に改称した。軍の召集により選手数が不足する苦しい状況で、1944年には監督兼主戦投手の若林忠志が35試合中31試合に登板してタイトルを総なめにし、3度目の優勝を遂げた。戦争が激化するなか、1944年の総進軍大会、ならびに1945年1月の正月大会(非公式大会)に「猛虎(阪神と産業の合同チーム)」の名称で参加したのを最後に、同年3月に活動を停止した。 戦後期(1946年 - 1959年)
戦後、1945年11月の東西対抗戦(非公式大会)より復帰し、1946年3月に球団名を大阪タイガースに戻した。したがって、翌1947年に大リーグに倣って職業野球全球団がニックネームを導入した際、タイガースだけは球団名の変更を行う必要がなかった。1946年の愛称は「猛虎」(日本野球連盟 (プロ野球)#1946年の球団愛称|参照)。1947年、若林が1944年と同様に投手兼監督として最優秀選手 (野球)|最高殊勲選手賞(MVP)を受賞する活躍をみせ、戦後初優勝となる通算4度目の優勝を飾った。1番打者・呉昌征から始まり金田正泰、藤村、土井垣武などリーグ屈指の強打者を並べた打線は「ダイナマイト打線」と呼ばれた。特に4番打者であった藤村は、物干し竿と呼ばれる長いバットを用いて本塁打を量産し、「ミスタータイガース」と称された。1949年には、チーム順位が6位にもかかわらず藤村が最高殊勲選手賞を受賞した。1949年オフのプロ野球再編問題 (1949年)|新球団加盟問題では、当初は千葉ロッテマリーンズ|毎日オリオンズら新球団の加盟に消極的ながら賛成していた。しかし最終的には反対派にまわり、2リーグ分立に際して読売ジャイアンツ等とともにセントラル・リーグ|セ・リーグを創設した。阪神に裏切られた形となった新球団毎日は、戦力確保のためにタイガースの選手を集中的に引き抜いた。監督兼主戦投手の若林を始め、打撃、守備の中心である呉(1番中堅手)、別当薫(3番右翼手)、土井垣(5番捕手)、本堂保次(6番二塁手)ら6名が毎日に移籍した。また別府星野組の左腕投手・荒巻淳もタイガース入団が内定していたが、毎日に奪われている。さらに遊撃手・長谷川善三が埼玉西武ライオンズ|西鉄クリッパースへ、門前眞佐人が横浜ベイスターズ|大洋ホエールズへ移籍し、ダイナマイト打線は崩壊した。セ・リーグ元年の1950年、阪神は移籍した若林にかわり松木が監督に就任し、毎日の引き抜きにあわずに残留した藤村、金田、後藤次男、藤村隆男、梶岡忠義、白坂長栄らを中心にチームを構成して前年を上回る4位という順位を確保した。しかし新規に加盟した球団を除けば最下位であり、レギュラーの3分の2が流出した影響は深刻であった。一方、チームの再建のため、ファームの結成や本格的なスカウト制度の導入などの改革により、世代交代の準備を進めた結果、1950年代には吉田義男、渡辺省三、小山正明、田宮謙次郎、藤本勝巳などの若手選手達が次々と主力になり、好成績を収めた。しかし投打が今一歩噛み合わず、水原茂監督率いる巨人が黄金時代の真っ直中にあるなかでタイガースは優勝から遠ざかることになった。 2度のリーグ制覇(1960年代)
プロ野球地域保護権|フランチャイズ制度の正式導入に伴い保護地域が兵庫県となったことから、1961年に社名を「株式会社阪神タイガース」、チーム名も阪神タイガースに変更した。しかし同年はチームの成績が低迷した上に、主力選手と度々衝突を繰り返した金田正泰がシーズン中に監督を解任されるなど、チームは混乱した。金田の後任として、巨人時代に7度のシーズン優勝を誇る名将・藤本定義(当時ヘッドコーチ)が監督に就任した。1962年、藤本の下、小山、村山実の両エースの力投と遊撃手・吉田、三塁手・三宅秀史、二塁手・鎌田実らによる守りの野球で2リーグ分立後では初となる通算5度目のリーグ優勝を果たした。1962年の日本シリーズ|日本シリーズでは北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ(現:北海道日本ハムファイターズ)と対戦したが、2勝4敗1分で敗退した。村山の最高殊勲選手賞(MVP)選出が当時の慣行で日本シリーズ開催の直前に発表されたため、両輪として活躍した小山をはじめとして、チーム内の雰囲気が悪かったことが大きく影響したといわれる。なお、シーズンMVP発表は翌年よりシリーズ後に変更された。1964年、エース小山と千葉ロッテマリーンズ|大毎オリオンズ(現:千葉ロッテマリーンズ)の4番打者山内一弘とのトレードを成立させて打撃を強化する一方、ジーン・バッキーらが小山の穴を埋め、6度目の優勝を果たした。横浜ベイスターズ|大洋ホエールズ(現:横浜ベイスターズ)があと1勝すれば優勝という絶体絶命のピンチに追い詰められながらも、最後に9連勝で逆転優勝を決めた奇跡的なシーズンであった。しかし、東京オリンピックの影響で早く始まった1964年の日本シリーズ|日本シリーズでは、福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス(現:福岡ソフトバンクホークス)相手に先に王手を掛けながらジョー・スタンカに2試合連続完封負けを喫し、3勝4敗で惜敗した。 迷走から日本一へ(1970年 - 1985年)
1970年、村山が選手兼任監督に就任。江夏豊と田淵幸一の「黄金のバッテリー」や吉田からレギュラーを奪った藤田平といった個性的で人気と実力を兼ね備えた選手が揃ったが、当時は王貞治や長嶋茂雄ら群を抜いた戦力を持つ巨人が絶頂期を迎えており、優勝には手が届かなかった(1970年2位、1971年5位、1972年2位)。1972年に村山が監督の肩書のまま投手に専念したため、金田正泰が監督代行を務めている。村山はこの年限りで引退。1973年、金田監督が復帰。同年、9連覇を目指す巨人と激しい優勝争いを行い、残り2試合で1勝すれば優勝というところまでこぎつけたもののナゴヤ球場|中日球場での中日ドラゴンズ戦では星野仙一を攻略できずに2-4で敗れ、地元甲子園での最終戦では巨人に0-9と完敗して優勝を逃した。1975年、吉田が監督に就任。優勝が期待されたが、エース江夏の不調などから3位に終わった。その年のオフに江夏を江本孟紀、島野育夫らとのトレードで南海へ放出。翌1976年は当時新記録のシーズン193本塁打など打撃陣は好調。ハル・ブリーデン、マイク・ラインバック、掛布雅之らの活躍により、巨人と激しく優勝争いを演じるが結局2ゲーム差の2位に終わる。1977年も序盤は好調だったが、中日戦での負け越し(8勝18敗)が大きく響いて、4位に。後藤次男監督時代の1978年には球団初の最下位に沈み、後藤は責任を取る形で辞任した。1978年オフ、小津球団社長が就任。小津は低迷するチームの改革を図るためには大規模な改革が必要と考え、正捕手・4番打者の田淵とエース級の古沢憲司を埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズの竹之内雅史、真弓明信、若菜嘉晴との交換トレードで放出。さらに江川事件で巨人が江川卓 (野球)|江川卓と契約しようとすると、これに対抗してドラフト会議で江川を1位指名した。しかし巨人入団を強く望む江川との交渉に難航し、結局江川を巨人に移籍させ、その見返りとして巨人のエース・小林繁を獲得した。1979年以降、ドン・ブレイザー、中西太、安藤統男が監督に就任したが、チーム成績は低迷が続いた。1985年、吉田が監督に復帰。1番・真弓、3番・ランディ・バース、4番・掛布、5番・岡田彰布らの強力打線(第2次ダイナマイト打線)がシーズン219本塁打を記録(これは2004年に巨人に破られるまでのセ・リーグ記録)。また中西清起、福間納、山本和行らがリリーフ投手として大車輪の活躍をして、21年ぶりのリーグ優勝を果たした。また、1985年の日本シリーズ|日本シリーズで、4勝2敗で西武を下し日本一を達成した。同年の最優秀選手 (MVP) となったバースは同年、翌年にわたり、2年連続で三冠 (野球)|三冠王を獲得した。1986年にはシーズン打率.389・シーズン長打率.777・7試合連続本塁打・13試合連続打点の日本新記録をマークした。なお、この年の8月12日に発生した日本航空123便墜落事故|日航機墜落事故で、阪神球団社長(当時)であった中埜肇が死去した。 低迷期(1986年 - 2001年)
1986年、掛布の骨折と主軸投手池田親興の負傷による長期戦線離脱、岡田などの主力選手の不振が影響し、夏のロードで広島東洋カープ|広島・巨人との優勝争いから脱落して、3位。1987年はシーズン最下位となり、吉田は監督を辞任した。1988年、村山実が監督に復帰。「少年隊」トリオと呼ばれた和田豊、大野久 (野球選手)|大野久、中野佐資を登用するなど若手への世代交代を進めたが、バースの帰国、掛布の引退などが重なり2年連続最下位。1989年、新外国人のセシル・フィルダーが大活躍するも三振してバットを叩きつけた際に骨折して帰国。順位は5位で、辛うじて3年連続最下位は免れたが、シーズン中から監督問題が浮上し村山は監督を辞任した。1990年、中村勝広が監督に就任。前ヤクルトのラリー・パリッシュや岡田が5月中盤まで好調であったが、投手陣はエースのマット・キーオが怪我で退団、規定投球回数に達したのは5勝11敗の猪俣隆と4勝13敗の仲田幸司のみという惨状で2年ぶりの最下位。1991年、開幕5連敗、6月に10連敗を喫するなど、開幕から55試合で15勝40敗と成績は振るわず、結局2年連続の最下位となった。後半戦は、猪俣隆、葛西稔といった若手投手が台頭し、5連続先発投手完投勝利を収めた。91年オフ、たけし軍団に敗れる。1992年、不振に陥っていた主砲の岡田に代わり、それまでほとんど実績がなかった亀山努、新庄剛志の両外野手(亀新フィーバー)に加えて、和田豊、トーマス・オマリー、ジム・パチョレック、八木裕らが活躍。甲子園球場のラッキーゾーンが撤去されて外野が広くなったこともあり、仲田幸司、中込伸、湯舟敏郎、野田浩司、弓長起浩、田村勤ら投手陣も奮起し、東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズと優勝争いを繰り広げ、巨人と同率ながら2位となった。1993年、主力選手の故障に加え、外国人枠を巡ってパチョレックが退団、昨年絶好調だった投手陣が崩壊し、4位に終わった。なお、この年に野田浩司と交換トレードで獲得した松永浩美がFAを宣言して福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークスへ移籍した。1994年、FAでオリックスから石嶺和彦を獲得。新人の藪恵壹、オリックスから移籍の古溝克之が活躍しシーズン後半まで首位争いに加わったが、終盤の7連敗により2年連続の4位。同年オフ、長打力不足などを理由にオマリーを解雇した。1995年、FAでオリックスから山沖之彦を獲得。開幕から和田豊、石嶺和彦といった日本人打者の不振もあって極度な成績低迷が続き、中村がシーズン途中で監督を辞任。藤田平が監督代行で指揮を取るも4年ぶりの最下位に終わった1996年、藤田が正式に監督へ就任。怪我の亀山に代わり桧山進次郎が台頭するも、チームは開幕から低迷、5月終了時点で借金15と、早期にペナントレースから脱落し、最終的には2年連続最下位となった。新庄や主力選手との確執により、藤田がシーズン途中で監督を辞任。1997年、吉田が監督に再復帰し、中盤まで上位を狙える位置にいたが、マイク・グリーンウェルの途中退団、新庄剛志ら主力選手の不振により失速し、5位に終わった。オフに久慈照嘉・関川浩一を中日へ放出し、大豊泰昭・矢野輝弘を中日から獲得。1998年、新人の坪井智哉が奮闘したものの、アロンゾ・パウエル、大豊泰昭といった主力打者が不振。8月に球団ワースト記録となる12連敗を喫し2年ぶりの最下位となり、シーズン後に吉田は監督を辞任した。1999年、前ヤクルト監督の野村克也が監督に就任。6月には一時首位に立ったが、先発投手陣の不振から徐々に失速、最下位に終わった。2000年、4月に9連勝し首位に立ち、5月には近鉄からトレードで吉田剛・西川慎一を獲得し、吉田がいぶし銀の活躍を見せ、更には新庄剛志が自己最高の28本塁打を放ったが、結果は3年連続の最下位。オフに新庄剛志がニューヨーク・メッツにFAで移籍した。2001年、井川慶が防御率2位の活躍、濱中治の台頭、赤星憲広が盗塁王・新人王を獲得したが、イバン・クルーズら外国人打者の期待外れもあり球団創設以来初の4年連続の最下位。野村は、チームの柱となる選手の獲得をたびたび球団に要請するも金銭的な理由で断られ、野村沙知代|沙知代夫人の脱税の責任を取って、監督を辞任した。 猛虎復活(2002年 - )
2002年
2001年オフ、前中日監督の星野仙一が監督に就任。日本ハムからFAで片岡篤史を獲得。2002年は開幕7連勝と好スタートを切って優勝争いに絡んだが、夏場以降読売ジャイアンツ|巨人に圧倒され4位であった。しかしながら、読売の優勝が決まった試合(直接対決)で、劣勢の中9回二死から追いつき、延長の末サヨナラ勝ちし、原監督の「屈辱の胴上げ」に追い込んだ粘りは、それまでになかったものでもある(読売の優勝はマジック対象チームの敗戦で試合中に確定していた)。オフに、所属選手の解雇やトレードを断行した一方、元ニューヨーク・ヤンキースの伊良部秀輝を獲得、日本ハムから下柳剛や野口寿浩らをトレードで獲得した。また、広島から金本知憲をFAで獲得した。;2003年
開幕より快進撃を続け、7月中に優勝マジックが点灯(史上最速)し、18年ぶりのリーグ優勝を果たした。日本シリーズは福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークスと戦い、第7戦までもつれ込んだものの3勝4敗で敗れた。日本シリーズ終了後に星野は体調不良を理由に監督を退任した。なお、星野によって招聘されたコーチ陣のうち、島野育夫はフロントに転出して管理部長として、オマリーは駐米スカウトとして球団に残ったが、田淵幸一と達川光男、西本聖は退団した。
2004年
岡田彰布が監督に就任。1年目の2004年は片岡篤史ら主力選手の不振、更に藤本敦士、安藤優也、ジェフ・ウィリアムスのアテネオリンピック (2004年)|アテネ五輪出場による離脱で大幅な戦力低下が響いて4位。
2005年
「JFK」(ジェフ・ウィリアムス、藤川球児、久保田智之)や「SHE (阪神タイガース)|SHE」(桟原将司、橋本健太郎、江草仁貴)などの救援陣の活躍や、アンディ・シーツ、金本、今岡によるクリーンナップの安定した成績で、同年導入されたインターリーグ|交流戦で好成績を収めて首位に立つと、シーズン終了まで1度もその座を譲ることなく5度目のリーグ優勝を飾った。また下柳剛が規定投球回未到達で最多勝を獲得するという珍事もあった。千葉ロッテマリーンズ|千葉ロッテとの2005年の日本シリーズ|日本シリーズは0勝4敗で敗退した。;2006年
シーズンの最後まで中日との優勝争いを繰り広げ、シーズン終盤に9連勝を飾るも、今岡誠の不振と負傷、久保田智之の負傷など、主力選手の不振が響いて2位となった。だが1985年(首位) - 1986年(3位)以来20年ぶりに2年連続のAクラス及び球団史上初の2年連続80勝を達成。2005年から実施された実数での観客動員数も2年連続300万人を超えた(1試合平均観客動員数は12球団一の4万3千人台)。シーズンオフに井川慶がポスティング制度|ポスティングシステムによりニューヨーク・ヤンキースへ移籍。;2007年
シーズンは先発・打撃陣の不振で4月から5月にかけて9連敗を喫し、交流戦でも9勝14敗1分の10位と低迷。最大借金9を抱える。しかしリーグ戦再開後は、打撃陣が挙げた少ない点数をJFKを筆頭とした中継ぎ陣で守り抜く守りの野球により、7月の上位の巨人・中日との13戦を10勝3敗で切り抜け、7月を15勝6敗と大きく勝ち越す。8月の長期ロードも12勝8敗1分で2年ぶりに勝ち越すと、シーズン終盤には10連勝し、一時首位に立つ。しかし、9月後半にJFKが失点を許す場面が目立ち、先発陣・打撃陣ともに不振に陥り、8連敗を喫するなど再び低迷し、最終的には3位に終わった。クライマックスシリーズ第1ステージではリーグ2位の中日と対戦。1戦目・2戦目ともに初回の大量失点と打撃陣の不振が響き、2連敗を喫した。この年は、2003年のオリックス・ブルーウェーブ以来4年ぶりに規定投球回数到達者なしという事態に陥った。それに、先発陣の完投数も12球団最少の3であり、完投したのは杉山直久、能見篤史、上園啓史の三人だけであった。一方、打率・得点も12球団最低であった。先発・打撃陣とも過去2年に比べ不調の目立つシーズンだったが、林威助・桜井広大・上園啓史・狩野恵輔・渡辺亮・庄田隆弘・坂克彦といった若手の台頭も目立ち、3年連続のAクラス達成と共に観客動員数も3年連続で300万人を突破した。なお、このシーズンは土壇場の9回に同点に追いつき勝利したり、敗色濃厚な試合を大逆転し、勝利するなど劇的な勝利が多かった。この年のオフは、中村泰広、濱中治、吉野誠、赤松真人をトレードならびにFAの人的補償で放出し、広島東洋カープ|広島からFA宣言した新井貴浩、トレードで金村暁、平野恵一、阿部健太を獲得するなど積極的な補強を行った。
2008年
5月6日、対巨人戦で勝利し、巨人に次いで史上2球団目の球団通算4500勝を達成。チーム成績・記録* リーグ優勝 5回 (1962年、1964年、1985年、2003年、2005年)
日本一 1回 (1985年)
Aクラス 43回 (1937春 - 1940年、1942年 - 1948年、1951年 - 1960年、1962年 - 1970年、1972年、1973年、1975年、1976年、1981年、1982年、1985年、1986年、1992年、2003年、2005年 - 2007年)
Bクラス 28回 (1941年、1949年、1950年、1961年、1971年、1974年、1977年 - 1980年、1983年、1984年、1987年 - 1991年、1993年 - 2002年、2004年)
最多勝利 87勝 (2003年、2005年)
最多敗戦 84敗 (1995年)
最多引分 13分 (1976年)
最高勝率 .829 (1938年春)
最低勝率 .331 (1987年)
最多連勝 14連勝 (1937年、1946年)
最多連敗 12連敗 (1998年、1999年) その他の記録
最小ゲーム差 0.5ゲーム (1937年春、1973年)
最大ゲーム差 37.5ゲーム (1987年)
最多本塁打 219本 (1985年)
最少本塁打 1本 (1944年)
最高打率 .345 (1936年夏)
最低打率 .197 (1941年)
最高防御率 1.53 (1944年)
最低防御率 4.79 (1978年)チーム特徴
球団名称
ニックネームの「タイガース」は阪神電鉄社員の公募によって決定した。この際、何人かが「タイガース」という名称を応募したが、抽選の結果、事業課所属の松原三郎が考案者として認定された。松原は大阪市|大阪の姉妹都市であるデトロイトを本拠地としていたデトロイト・タイガースを参考にしてこの名称を応募したとされているが、デトロイト・タイガースとは無関係に「タイガース」というニックネームを考えた者も多数いたと言われている。このニックネームについては、英語表記「Tigers」を発音すると「タイガーズ」のほうがより近いが、正式名称は片仮名表記であるため、タイガーズとするのは誤りである。当時の球団名においては、複数形のsを英語で「ズ」と発音する場合にも正式名称を「ス」とすることは一般的であった。その後「タイガース」の名は、戦争中の英語が使用出来なかった時期を除き、一貫して使われてきた愛称である。戦前のプロ野球チームでは「翼軍|セネタース」「大和軍|イーグルス」などの愛称があったが、球団の消滅にともないこれらの愛称もなくなり、現在でも使われているものは、2005年に復活した「東北楽天ゴールデンイーグルス|イーグルス」を除けば、「ジャイアンツ」と「タイガース」だけである。球団名「阪神タイガース」は、親会社が「阪神」電鉄であることと、本拠地である阪神甲子園球場|甲子園球場が大阪市と神戸市の間の「阪神」地区に位置していることとの2つの意味をあわせもった球団名である。設立当初は「大阪タイガース」という球団名であったが、タイガース以外にもオリックス・バファローズ|阪急、福岡ソフトバンクホークス|南海が大阪にあったことから略称として「阪神」が使われており、さらに甲子園球場が大阪府ではなく兵庫県に位置していたため、当時ヘッドコーチだった青田昇等の意見により、1961年に改称した。改称以前の1954年に発足したファームの新日本リーグにも、神戸を本拠とした事もあり、阪神ジャガースの名称でチームを組織していた。球団名を一文字で表記する時は一般的に「神」とする。本来であれば略称「阪神」の一文字目の「阪」の字を用いるところだが、かつてオリックス・バファローズ|阪急との混乱を避けるために、阪神は「神」、阪急は「急」としていた名残りである。六甲おろし
球団歌は『阪神タイガースの歌|阪神タイガースの歌(旧:大阪タイガースの歌)』である。歌詞の冒頭をとって六甲おろし(ろっこうおろし)と呼ばれる。『阪神タイガースの歌』は球団結成と同時に『大阪タイガースの歌』として作られたもので、戦前から現在まで用いられている球団歌は他にない。他球団の応援歌は、歌詞に問題があったり、球団が消滅するなどして、いずれも現在では使われていないが、『大阪タイガースの歌』だけは、歌詞中の大阪タイガースという単語を阪神タイガースに変えただけで現在も使われている。なお、歌詞の中で連呼される感嘆詞「オウ」は大阪タイガースの「大」に掛けたものであるが、球団名を改めた後もそのまま残った。試合開催地について
歴代本拠地 ホーム・アンド・アウェー|ホームゲームでは大部分の試合で本拠地である阪神甲子園球場を使う。現在のプロ野球で本拠地となっているものの中では最古である。元々は高校野球開催など、多目的にスポーツ行事で使用することを目的として造られた球場であった。1948年のプロ野球地域保護権|フランチャイズ制仮導入までは、ホームゲームを本拠地で行う習慣はなく、甲子園球場や後楽園球場、西宮球場などの中から日程上都合のいい球場を選んで行っていた。また、フランチャイズ制導入後も、甲子園球場のナイター設備が導入されるまでは大阪球場でナイターを行うなど、他球場での主催試合もあった。また、大阪ドーム(2006年7月1日より「京セラドーム大阪」)でも1997年の開場から主催試合を行っているが、2005年から2007年までの3年間は野球協約上の保護地域が大阪府にも暫定拡大したことから公式な準本拠地として使用していた。(ダブルフランチャイズ前後の2004年までと2008年も高校野球シーズンを中心に3カード・10試合程度を大阪(京セラ)ドームで開催している)甲子園球場以外での主催試合も主に関西を中心とした西日本で開催されることが特徴である。大阪ドーム開場以前は、1988 - 1990年には神戸総合運動公園野球場|グリーンスタジアム神戸、1991 - 1996年には西宮球場で年間数試合が行われた。現在では、大阪ドームの他に岡山県倉敷スポーツ公園野球場|倉敷マスカットスタジアムや松山坊っちゃんスタジアム(2007年は主催試合なし)で年1 - 2試合程度主催試合を行う。以前は西京極球場でも毎年1試合を行っていたが、2005年(西武戦)を最後に主催試合がない。2006年は1試合を予定していたが甲子園球場に振りかえ、2007年はオープン戦すら行っていない。2005 - 2007年は、兵庫県のオリックス・バファローズ|オリックスが大阪府の大阪近鉄バファローズ|近鉄をプロ野球再編問題 (2004年)|吸収合併したことによるダブルプロ野球地域保護権|フランチャイズ問題の暫定処置として、大阪ドーム(2006年7月1日から「京セラドーム大阪」に変更)を準本拠地として使用することが認められていた。このため、高校野球で阪神甲子園球場が使えない時期などには、大阪ドーム(京セラドーム大阪)で主催試合を行う。もっとも、この問題とは別にドーム開場年から毎年使用実績がある。2軍の本拠地は阪神鳴尾浜球場を使用している。阪神甲子園球場と鳴尾浜球場は互いに徒歩圏内にあり、二軍の選手も一軍から声がかかれば自転車でもすぐにファーム本拠地から一軍本拠地に行くことができ、非常に利便性が高い。12球団の中でも一軍の本拠地とファーム本拠地間の距離は埼玉西武ライオンズの次に短く、互いの球場を徒歩で行き来出来るのも12球団の中では阪神と西武の2球団のみである。 前年Aクラス時の開幕戦
甲子園球場は高校野球の開催地でもあるため、タイガースは、前年(2003年以降は前々年)Aクラスに入り本拠地開幕権を得ても、選抜高等学校野球大会開催のため甲子園で開幕戦を迎えることができない。選抜高校野球大会は毎年3月下旬から4月上旬まで甲子園で行われるが、セントラル・リーグの開幕がこの時期になると当然甲子園でのプロ野球開催が不可能になってしまう。従ってこの間に第1節が設定されてしまうと地元開催ができなくなるわけで、実際に選抜が行われている時期に第1節が設定されると開幕を地元で迎えられなくなる。そのような場合の対処法として、以下の4つのパターンがあった(フランチャイズ制が確立し、現行の6球団制となった1953年以降、大阪ドームで開幕戦を行った2005年以前に絞る。なお2002年はFIFAワールドカップ日韓大会対策の特例処置だったが、阪神はビジター開幕。2003年以後、新シーズン開幕のホーム開催権利は2年前のリーグ戦上位3球団に与えられる)。# 前年Bクラスチームの本拠地で開幕を迎える
* 1953年:後楽園球場(国鉄スワローズ本拠地)
* 1955年・1958年:川崎球場(大洋ホエールズ本拠地)
* 1960年:広島市民球場(広島カープ本拠地)
* 1977年:明治神宮野球場(ヤクルトスワローズ本拠地)
* 1982年・1986年:横浜スタジアム(横浜大洋ホエールズ本拠地)
前年Aクラスチームの本拠地で開幕を迎える
* 1957年:ナゴヤ球場|中日球場(前年3位の中日ドラゴンズ本拠地)
* 1976年:広島市民球場(前年1位の広島東洋カープ本拠地)
地方球場での主催ゲームで開幕を迎える
* 1968年・1974年:岡山県営球場(1968年は対広島東洋カープ、1974年は対大洋ホエールズ)
地方球場でのビジター試合で開幕戦を迎える
* 1954年:中津市営球場(大洋松竹ロビンス主催 当時のロビンズは大阪球場が本拠だった)こういう事態が考えられるから、かつては連盟が阪神に配慮して第1節を選抜開幕前、もしくは終了後に設定したというケー | | | |